御宿玉川
当館ゆかりの人物
宇山博明・向井潤吉


 書道家 宇山博明氏

*当館との関わり*

旅館開業当初、宮沢賢治に関心を持ち、花巻を訪れた(昭和30年代前半)書道家が、縁あって当館に宿泊された際、旅館の看板、掛け軸等多数書いて頂きました。

各客室の掛け軸はすべて、書家が宮沢賢治の作品の一節を書きとめたものです。



 宇山博明氏プロフィール
(フェイスブック『宇山博明の軌跡』より)

造形家宇山博明(一九一三~一九九七・青森市生)。当時の義務教育小学校六年卒で社会に出た。彼には家族を抱えての生活があった。当然「学歴ナシ」という社会的レッテルと貧乏とを背負って直面する現実である。十代にして書家としての立場をどのように構築してきたのか。少年博明は圧し潰されそうなハンデをどのようにしてはねのけ、どのようにして自分の位置を模索してきたのか。
 ”現代”の出発点というべき”戦後”の八戸に悠然と現れて光を放ち、文化の諸相を彩った稀有なる人物が宇山博明である。
 敗戦ー日本の解体ー激戦地ビルマで貫通銃創をうけ肺の一部を吹きとばされ、ボロボロの体で東京出身の妻の疎開先、八戸の種差に帰ってきた。種差のやわらかな岱、巌に砕ける波濤は彼の心身を癒し、失われたものの再興、新生へとむかっていった。
 一九四六年戦場から帰った宇山が見たものは荒廃した祖国と飢えた子供達であった。此の子等の未来に夢を与えたい、大空を子供に返したいと博明は思った。この希(ねがい)は後年、健康な子供の象徴として南部凧絵・金太郎五態の創作によって結実した。しかも芸術性を評価されて大英博物館に収蔵され、人類の財産となった。
 
 


 

 
   


 画家 向井潤吉氏(京都市出身 洋画家)

*当館との関わり*
一巻して、日本全国の民家を描き続けた画伯だが岩手県遠野市地方の民家を描きとめようと、たびたび岩手を訪れた際、当館に長いとう留され、個人タクシーに乗り、この地方の民家を散策されております。


 向井潤吉氏 プロフィール
(ウィキペディアより)

1901年(明治34年)11月30日 - 1995年(平成7年)11月14日)は日本の洋画家。戦前から戦後にかけて活躍、40年以上に渡り北海道から鹿児島までを旅し、生涯古い民家の絵を描き続け「民家の向井」と呼ばれた洋画家であった。弟は彫刻家でマネキン制作会社「七彩」初代社長の向井良吉、長男は元TBSディレクターで萩本欽一を育てた事で有名な向井爽也。